
前回、四月三十日の早朝に倉庫の屋根へサルが乗った話を書きました。検知は正しく動き、通知も正しく飛んで、受け取った私が数時間それを放置していた、という話です。
あの記事の終わりの方に、音声録音のことを一行だけ書きました。当該時刻の録音を再生したら、屋根材を踏む音が一つだけ残っていた、と。
なぜ、あの時すでに音を録っていたのか。
話は四月のはじめに戻ります。
サルが映った、という一枚は、裏を返せば「もう庭にいる」という一枚です。
カメラの画角に入るということは、森を抜けて、斜面を上がって、倉庫まで来ているということです。その時点で私にできることは、ほとんどありません。通知を見て、外に出て、手を叩く。間に合えば追い返せますが、間に合ったことは一度もありません。畑にいる時ですら、気づいた時には枝が揺れて終わっています。
映像検知でわかるのは、来たかどうかです。私が欲しかったのは、来るかどうかでした。
この二つの差は、時間にすれば五分か十分でしょう。けれどその五分があれば、畑に出られます。ビワの木の下に立てます。立っている人間がいる場所に、サルは降りてきません。五分早いだけで、記録係が防御になる。
では、その五分をどこから取るか。
南房総に移ってから、サルの来方はずっと見てきました。
群れは、いきなり全部では来ません。先に二、三匹が来ます。時間はたいてい早朝です。倉庫の屋根に上がったり、森の縁を行ったり来たりして、しばらくすると数が増える。そのあとに本隊が入ってきます。
私はこの先発の二、三匹を、勝手に斥候と呼んでいました。
そして、彼らが来ている時、森の方から独特の声が聞こえます。鳥ではありません。低く、喉の奥で転がすような音が短く鳴って、少し間を置いて、また鳴る。何年も聞いていて、私はこれを仲間を呼んでいる声だと思っていました。
ただ、これは体感です。根拠はありません。声が聞こえたから群れが来たのか、群れが来るような朝は私が森の音に敏感になっていただけなのか、区別する方法がありませんでした。何年聞いていても、聞いているだけでは何も確かめられない。
四月のはじめ、鳥の検知を組み終えたあたりで、この体感の方を調べてみることにしました。
名前が、ありました。
クーコール。ニホンザルの音声の中で最も頻度が高い、コンタクトコールに分類される鳴き声です。姿が見えない仲間同士が、互いの位置を知らせ合うために使う。
数字も出てきました。
音圧はおよそ 65dB。二頭が交互に鳴き交わす時の応答潜時が 250ms 程度。そして、視界が悪い条件下では発声頻度が上がり、一分あたり 0.4〜1.0 回になる。
三つ目で、手が止まりました。
視界が悪いほど鳴く。つまり、森の中を、互いを見失いながら移動している時にこそ鳴く。私が早朝に聞いていたのは、まさに森の中を進んでいる最中の斥候の声だったことになります。畑に出てきて、姿が見えている時には、鳴く必要がない。
体感が、そのまま説明されていました。何年も「たぶん仲間を呼んでいる」と思っていたものが、実際に仲間を呼ぶための音声として記載されている。自分の観察が当たっていたことより、当たっているかどうかを確かめる手段があったことの方が意外でした。
二つ目の 250ms も、後で効いてきます。鳴き交わすということは、一回で終わらないということです。一回だけ鳴る音は、鳥かもしれないし風かもしれない。けれど数秒のうちに二回、三回と続く音は、サルである可能性がぐっと上がる。この時点ではまだ漠然としていましたが、「一回では判定しない」という設計の芽は、この数字から出ています。
名前と数字がわかっても、まだ確証ではありません。
私が森で聞いている音と、文献に書かれているクーコールが同じものだという保証はどこにもない。似た説明の音は他にもあり得ます。耳で確かめる必要がありました。
大阪市立自然史博物館が公開している映像データベース(MOMO)に、ニホンザルの音声が収められています。クーコールにはいくつかのパターン分類があり、そのうちの PATTERN III は「ンー、キィッ、キュルル」と書き起こされていました。
MOMO: ニホンザルのクーコール(PATTERN III)
リンク先動画の1:00ごろから PATTERN III が聞こえます
再生しました。
聞いたことのある音でした。書き起こしの三音の並び方まで、記憶の中の音と重なります。低く始まって、短く跳ねて、転がって終わる。早朝に、森の縁のあたりから聞こえてくるあの音です。
ここでようやく、体感が仮説になりました。斥候はクーコールを発している。だからクーコールを聞き分けられれば、群れが庭に入る前に気づける。
そして重要なのは、この音がすでに毎回、庭のマイクの前を通っていたということです。新しく設置するものは何もない。カメラの音声はもともと取れている。取れているのに、誰も聞いていなかっただけです。
四月五日、DEVELOPMENT.md に Phase 4 を書き足しました。ニホンザル斥候コール検知による早期警戒システム。メルスペクトログラムで分類モデルを作るところまで、五つのステップ。
音は存在していました。名前も、数字も、照合できる音源もありました。あとはこの音を機械に聞かせればいい。そう思っていました。
音が存在することと、その音を機械が検知できることの間に、どれだけの距離があるのか。この時の私は、まだ一つも知りません。
次は、その音をどこから調達するかの話です。福島のサルが七千二百八十五回鳴いた記録を、私は借りることになります。